スリランカ旅行をする時に役立つ情報

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更新日:
 2013年3月7日




◎国名:スリランカ民主社会主義共和国
    Democratic Socialist Republic of Sri Lanka

 正式名称はシンハラ語で「Sri Lankā Prajathanthrika Samajavadi Janarajaya」、タミル語で「Ilangai Jananayaka Socialisa Kudiarasu」です。
 公式の英語表記は「Democratic Socialist Republic of Sri Lanka」で、通称「Sri Lanka」です。日本語の表記は「スリランカ民主社会主義共和国」で、通称は「スリランカ」です。
 「スリランカ」はシンハラ語で、正確には「シュリー・ランカー」と発音するようです。「シュリー」は「聖なる」という意味の接頭辞で、「光り輝く」とか「高貴な」という意味を持っているそうです。一方、「ランカー」は、古くからこの島を表す固有名詞でと使用されてきたようで、正確な語源は判明していないそうです。

◎首都:スリー・ジャヤワルダナプラ・コーッテ
    Sri Jayawardenepura Kotte
    名称が長いため、通常は「コッテ」または「コーッテ(Kotte)」と略される。

 同国西部に位置する旧首都コロンボの中心部から東に約15kmの位置にある。1985年にコロンボから遷都されたが、2007年時点では、国会議事堂、森林局など一部を除き、首都機能の大半はコロンボから移転していない。市街地はコロンボから連坦しており、事実上コロンボ郊外の一角を市域とする都市である。
 1415年、コーッテ王国の都となった。この頃は、「ジャヤワルダナ」(勝利をもたらす、の意)と称されていた。その後、ポルトガル、オランダ、イギリスの植民地支配を受けた。植民地時代は「コッテ」と称されていた。
 1977年、コロンボから首都機能をコッテへ移転する計画が示され、1983年に国会議事堂が完成した。当時のジャヤワルダナ大統領が、かつての都の名称と自分の名前が同じだったため、旧名を復活させた。そのため、街の正式名称が「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ」(聖なる・勝利をもたらす都市・コッテ)とされた。
 1985年、コロンボからの遷都が正式に発表された。名称の由来は、「スリ(光り輝く)・ジャヤワルダナ(第2代大統領名)・プラ(街)・コッテ(元々の街の名前)」である。なお、国会議事堂は、人造湖の中央に位置する島に立地している。

◎面積:6万5,607 km2(北海道の約0.8倍)

◎地勢:
 赤道から北に約880キロメートル、南アジア・インド半島の南東沖、インド洋上に浮かぶ島国。本島といくつかの小島から構成されています。

◎人口:
 約2,045万人(2009年)
 約2,087万人(2011年、スリランカ中央銀行 Annual Report)
 約2,028万人(2012年3月)

・スリー・ジャヤワルダナプラ・コーッテ
 11万5,826人(2001年)

◎人口密度:309人/km2 

◎民族:
 シンハラ人(72.9%)、タミル人(18.0%)、スリランカ・ムーア人(8.0%)(一部地域を除く値)

◎言語:公用語(シンハラ語、タミル語)、連結語(英語)

◎宗教:
 仏教徒(70.0%)、ヒンドゥ教徒(10.0%)、イスラム教徒(8.5%)、ローマン・カトリック教徒(11.3%)(一部地域を除く値)

◎識字率(15歳以上):全人口:91.4%(2009年)

◎独立:1948年2月4日
 イギリス連邦内の自治領(英連邦王国)として独立した。国名はセイロン。
 統一国民党(United National Party, UNP)のD. S. セーナーナーヤカ(D. S. Senanayake)が首相に就任した。

◎国旗
 現在の国旗は1978年に公式採用されました。スリランカ最後の王朝となったカンディ朝時代の国旗を基にデザインされています。全体が黄色で縁取りされていて、右側には右手に剣を持った金色のライオンが、左側には緑と橙色の帯が描かれています。
 金色のライオンは、シンハラ族の祖先と伝わる「シンハ(=シンハラ語でライオン)」に由来したもので、剣を持つ獅子が国の象徴を表しています。
 緑と橙色の帯は少数派民族であるイスラム教徒(またはムーア人)と、ヒンドゥー教のタミール人を表しています。(緑がイスラム、オレンジがヒンドゥーです。)
 四隅には仏教徒を意味する菩提樹の葉が描かれており、民俗融和を表現しています。

◎国花
 青のスイレン(ニンフェアステラータ)

◎政治体制(2013年2月18日)
 政体:共和制
 議会:一院制(定数225議席、、任期6年)
 元首:マヒンダ・ラージャパクサ大統領(Mahinda Rajapaksa)
 政府:D.M.ジャヤラトナ首相(Dissanayake Mudiyanselage Jayaratne)

◎軍事力
・予算:15億ドル(2011年)(ミリタリー・バランス、2011)
・兵役:志願制(ミリタリー・バランス、2011)
・兵力:160,900人(陸軍:117,900人、海軍:15,000人、空軍:28,000人)(ミリタリー・バランス、2011)

◎主要産業
 農業(紅茶、ゴム、ココナツ、米作)、繊維業

◎経済
・名目GDP
 574億米ドル(2011年、スリランカ中央銀行年報等)

・一人当たりGDP
 2,836米ドル(2011年、スリランカ中央銀行年報等)

・GDP経済成長
 8.3%(2011年、スリランカ中央銀行年報等)

・物価上昇率
 6.7%(2011年コロンボ消費者物価上昇率)

・失業率
 4.2%(2011年、スリランカ中央銀行年報等)

・デット・サービス・レイシオ(債務返済額÷総輸出額)
 12.6%(2011年、スリランカ中央銀行年報等)

◎総貿易額
・輸出
 105.6億米ドル(2011年、スリランカ中央銀行年報等)

・輸入
 202.7億米ドル(2011年、スリランカ中央銀行年報等)

◎主要貿易品目
・輸出
 工業製品(繊維・衣類製品等)76%、農業製品24%、宝石類0.3%(2011年、スリランカ中央銀行年報等)

・輸入
 中間財(繊維関連等)61%、資本財21%、消費財(食料品等)18%、その他0.3%(2011年、スリランカ中央銀行年報等)

◎主要貿易相手国
・輸出
 米国(20.3%)、英国(10.5%)、イタリア(5.8%)、ベルギー・ルクセンブルク(5.4%)、インド(4.9%)(2011年、スリランカ中央銀行年報等)

・輸入
 インド(21.9%)、シンガポール(10.5%)、中国(10.3%)、イラン(7.9%)、日本(5.1%)、マレーシア(3.4%)(2011年、スリランカ中央銀行年報等)

◎通貨
 通貨単位はスリランカ・ルピー。一般に1ルピーはRe.と、それ以外はRs.と略す。
 また、補助単位はスリランカ・セントで、Cts.(1セントはCt.)と略す。Rs.1=Cts.100。
 現在では、この単位を使用することはなく、Cts.50をRs.0.5と表記することが多い。

・紙幣
 Rs.2000、1000、500、200、100、50、20、10、5、2(Rs.5と2はほとんど流通していない)。

・硬貨
 Rs.10、5、2、1、Cts.50、25、10、5、2、1(Cts.50以下はほとんど流通していない)。

・レート
 1米ドル=113.9ルピー(2011年末値)
 1ルピー=0.68円(2011年末値)

◎時差:
 スリランカ標準時は、日本標準時より3時間30分遅れです。

◎ビザ(2013年1月15日)
 2012年1月1日より、観光目的で30日未満の滞在の場合もビザの申請が必要になりました。申請方法は、ETA専用ウェブサイト(http://www.eta.gov.lk/)にアクセスし、必要事項を入力する方法と、スリランカ入国時に申請する方法があります。
 ビザ申請手数料は観光目的の場合でUS$20。

・パスポート
 パスポートの有効残存期間は6ヵ月が必要です。

◎空港

◎航空会社(2011年5月)
 2011年5月現在、スリランカ航空がノンストップ便を週1便、モルディブのマーレ経由便を週2便運航している。所要時間はノンストップ便で約9時間、経由便で約13時間。

◎電気事情
 電圧は230~240Vで周波数は50Hz。プラグタイプはB3またはB。日本から電化製品を持っていく場合は、変圧器とアダプターが必要です。停電も多いようです。

◎水
 生水は絶対に飲まない。一度、沸騰させたボイルドウォーターや、ミネラルウォーターなどを飲用する。購入する際には、キャップがしっかり締まっているかを確認する。ミネラルウォーターの値段は、大きさによりRs.20~50程度。どんな小さな商店でも、基本的には売っている。

◎クレジットカード

◎チップ
 ほとんどのホテルやレストランでは、サービス料が含まれているので、チップは不要です。含まれていない場合は、勘定の10%が普通です。

・レストラン
 10%のサービス料が含まれていることが多いので払う必要はない。気持ちのよいサービスを受けたときには、ウエイターにRs.20~50程度のチップを渡しても良い。

・ホテル
 目安としては、ホテルのポーターにはRs.50~100くらい。

・ドライバーやガイド
 Rs.100~200くらい。

◎税金
 一部のホテルやレストランでは、付加価値税(VAT)12%とサービスチャージ(SC)10%が上乗せされる。
 さらに、これに加えて観光税(TDL)などが上乗せされる場合もある。

◎インターネット
 旅行者が訪れるような大きな町には、大体、インターネットカフェがある。日本と比べるとスピードは遅い。また、停電も多いので突然電源が落ちることも少なくない。
 場所によって料金はまちまちだが、1分当たりRs.50~100程度。日本語が使えるところもある。

◎車
 車は右ハンドルで、左車線を走ります。ライトを点滅された場合はドライバーが道の権利を主張しているという意味です。

◎ビジネスアワー
・銀行
 通常の営業時間は、月~金曜日は9:00~13:00、土曜、日曜、祝日は休み。

・オフィス
 月~金曜日は8:00~17:00。一部の会社は土曜日も13:00まで営業している。

◎気候
 スリランカの気候はコロンボ、キャンディなどを含む南・西部と、ジャフナ、アルガム・ベイなどを含む北・東部で大きく2つに分かれます。
 スリランカは熱帯性モンスーン気候に属しており、大きくわけて雨季と乾季の2つの季節があります。西部・南部・中央地域は5月から7月にかけて、北部と東部は12月から1月にかけて雨季が訪れ、それ以外の季節が観光に適した乾季となります。
 場所による気温差が激しいのも特長で、海岸部や低地は平均気温が27℃と一年を通して半袖で過ごせる熱帯気候。一方、標高が1,000メートルを超えるスリランカ中央部の丘陵地は最低気温が14℃前後まで下がることもあり、英国植民地時代から避暑地として人気が高いエリアです。

・南・西部
 南・西部は4~6月、10~11月が雨季で、12~3月が乾季。雨季には、モンスーンの影響で1日に数回多量の雨が降る。キャンディなどの高地では12月まで雨季が続くが、年間総降水量は南西海岸のほうが多い。平均気温は、コロンボは約27℃と高いが、ヌワラ・エリヤなどの高原地帯は約16℃と年間を通して春のような天候。

・北・東部
 北・東部は10~3月が雨季で、5~9月が乾季となる。全体的に南西部よりも乾燥しており、雨も少ない。南西部よりも気温の差が大きいものの、やはり平均気温は30℃近くと暑い。

◎喫煙
 2006年から公共の場での喫煙が禁止されている。

◎タクシー
 タクシーは黄色い屋根と赤と白のプレートが付いています。コロンボなど都市部では、メーター付きのタクシーが多く走っています。

◎三輪自転車(トゥクトゥク)(2012年6月)
 三輪自転車は市内や短距離の移動に適しており、ドライバーも快く乗せてくれるでしょう。車両のほとんどがインド製のバジャジ人力車です。
 コロンボなど都市部では、メーター付きの物が増えてきており、通常の初乗り料金は1km=Rs.50です。(2012年6月現在)

◎祝祭日(2013年3月)
 2013年の祝祭日は、下記の通りです。(●は毎年、日付が変動します。◎は国民の祝日。)
1月14日:タミル豊穣祭 ●
1月26日:ドゥルス・ペラヘラ(ペラヘラ祭り) ●
2月4日 :◎独立記念日
2月5日:ムハンマド生誕祭 ●
2月25日~26日:ナワム・マハ・ペラヘラ祭り ●
3月10日:ヒンズー教神聖日(マハー・シワラトゥリー・デー) ●
3月29日:◎聖金曜日 ●
3月26日:メディン・ポヤ・デー ●
4月25日:バク・ポヤ・デー ●
4月14日:◎シンハラ・タミル正月 ●
5月1日 :◎メーデー
5月24日:ヴェサック・ポヤ・デー ●
5月25日:翌日祭 ●
6月23日:ポソン祭り●
7月22日:エサラ・ポヤ・デー(エサラ・ペラヘラ祭り) ●
8月20日:ニキニ・ポヤ・デー ●
8月7日:ラマダンフェスティバル ●
9月19日:ビナラ・ポヤ・デー ●
10月16日:ハジフェスティバル ●
11月3日:ディーパヴァリ祭 ●
11月13日:ヒンズー記念日 ●
11月17日:イル・ポヤ・デー ●
12月16日:ウンドゥワブ・ポヤ・デー ●
12月25日:◎クリスマス ●
<注> 上記は2013年のものです。

 毎月、満月の日は「ポヤ・デー(Poya Day)」と言われる、満月をお祝いする祝日となります。不浄の活動(経済活動、食肉、その他)を控え、清らかな心で、この日をお祝いするのが習わしです。
 官公庁などは、全てお休みとなり、ストアー等では肉等の取り扱いも停止され、全土的に禁酒の日となります。地元のお酒好きな人は、前日の午後8時(スリランカでは午後8時が、お酒販売の最終時間だそうです。)迄にお酒を買い込むので、酒屋さんの前に列が出来ることがあるそうです。

◎略史
 紀元前5世紀末に編集されたスリランカの正史ともいうべき「マハーワンサ(Mahavamsa)」には、スリランカの歴史は紀元前543年(仏陀入滅の年)にウィジャヤ王子がランカ島(現在のスリランカ)に上陸したことから始まったという、下記のような伝説が記されているそうです。
 「インドでベンガルの王女と雄ライオンとの間に双子の兄妹が生まれた。息子はライオンを殺し、妹と結婚してラーラ国を建設する。ウィジャヤはこの兄妹の長男であるが、荒くれ者に育ち乱暴狼藉に明け暮れていたため、船で国を追放されてしまう。その後、ランカ島に漂着したウィジャヤはこの地で結婚をし、シンハラ王国を建設した。」
 その約300年後、アヌラーダプラに首都をおくシンハラ王朝初期のデーワーナンピヤ・ティッサ王(King Devanampiya Tissa)の統治時代には、その木の下で仏陀が悟りの境地を開いたという神聖な天竺菩提樹がスリランカへ渡ったとされています。そしてアヌラーダプラ王朝の後期(459年~)には、現在スリランカの観光のシンボルになっている世界遺産シーギリア・ロックに驚くべき城砦を築いた狂気の王カーシャパ (Kasyapa)の時代を迎えました。
 10世紀末になると、南インドで勢力を拡大していたチョーラ王朝がアヌラーダプラを征服したことから、1017年にシンハラ王朝の首都はポロンナルワへと移されました。その後、シンハラ王朝は交易と農業が栄えたパラークラマ・バーフ1世(Parakrama Bahu I)の黄金時代を迎えます。この時期、スリランカでは灌漑技術が大きく進歩し、首都の周辺には大規模な灌漑用貯水池が建設され、乾季の農耕が可能となりました。
 しかし、後に続くポロンナルワ王族は保身に注力して南インドの王族貴族の支援を求めたため、王朝の力は徐々に衰退し、1255年には南インドのパーンディヤ朝に権力を委譲してポロンナルワの時代が幕を閉じました。
 その後、1280年代には冒険家マルコポーロが中国からの帰りにスリランカを訪れ、「ここは世界一素晴らしい場所だ」と褒め称えたと伝えられているそうです。マルコポーロのスリランカ訪問の様子は「東方見聞録」にも記載されており、スリランカの自然や宝石の素晴らしさが紹介されています。
 16世紀始め、スリランカには3つの王国(北のジャフナ(Jaffna)王国、中部高地のキャンディ(Kandy)王国、コッテ(Kotte)王国が覇権を競い合っていました。当時、最も強い勢力を誇っていたのは、南西部のコッテ王国だったそうです。
 1505年、インドのポルトガル居留地総督の息子、ローレンコ・ディ・アルメイダ(Lorennso D‘Almeida)が父を訪ねてインドに向かう航海の途中、嵐に遭遇し、偶然、スリランカに漂着したことがきっかけとなり、ポルトガルはコッテ王国と友好条約を結びます。
 その後13年間、ポルトガルはスリランカから遠ざかっていましたが、1518年に両者は衝突、コッテ軍はポルトガル軍に排撃され、王は毎年の上納品としてスパイス、シナモン、ルビー、サファイア、象などをポルトガルに贈ることになりました。その当時、シナモンの産地は南インドのケーララとスリランカ西南部に限られていたため、香辛料貿易はポルトガルにヨーロッパ市場で莫大な利益をもたらしました。当時は、ポルトガル領セイロンと認識されていたようです。
 その後、ポルトガルへの忠誠に対しての見返りを期待していたコッテの想いとは相反し、ポルトガルはその勢力を益々拡大し、内陸部を統治していたキャンディ王国を除くスリランカ全土を攻略していきました。キャンディ王国は高地にあり、沿岸部からのアクセスが悪いという立地条件が功を奏し、ポルトガル軍の攻撃を追い払うことができたといわれています。
 17世紀初頭、キャンディ王国はポルトガル人の追放にオランダの支援を得ようと動きましたが、皮肉なことに、この試みは、スリランカにおけるポルトガル支配からオランダ支配への転換をもたらす結果を招くことになりました。
 1638年からポルトガルとオランダとの戦いがはじまり、ポルトガルの初上陸から153年後の1658年には沿岸部を中心とする島の大半がオランダ領となりました。オランダ統治時代は、その後、約140年間も続きました。オランダもポルトガル同様、キャンディ王国の攻略を試みましたが、失敗に終わりました。軍事制圧による領土拡大を強く推進したポルトガルに対し、オランダは貿易による利潤獲得に、より意欲を燃やしたといわれています。
 18世紀後半に勃発したフランス革命は、ヨーロッパの古い体制や思想を破壊する役割を果たし、ヨーロッパ史のみならず世界史を揺るがすことになりました。1795年、フランスがオランダを占領し、これを機に、イギリスが遠征軍をスリランカに派遣しました。1798年に、イギリスがキャンディ王国を除く地域を占領しました。
 ナポレオン戦争の第二段階が終了した1802年にアミアンの和約が結ばれ、オランダ領は正式にイギリスに引き渡されました。イギリスは翌年、キャンディ王国を屈服させ、1818年にはスリランカ全島を直轄植民地としました。このようなイギリス統治の動きに対し、1817年、1843年、1848年に島民の反乱が起こりましたが、いずれも鎮圧されました。
 イギリスは直轄植民地支配の始まりと共にコーヒー、シナモン、およびココナッツ栽培の開発に乗り出しました。また、これらの農作物の流通を図るための道路と鉄道のネットワークも整えました。
 コーヒーの栽培は植民地経済を支える基幹産業でしたが、1870年代の黒葉枯れ病の発生を機に衰退し、代わって紅茶とゴムのプランテーション農業への転換が図られました。これが今日、世界第二位の輸出量を誇るスリランカの紅茶栽培の幕開けとなったのです。
 当時、イギリスはプランテーションにおける安い労働力確保のため、シンハラ人の獲得に奔走しますが、失敗しました。代わりに南インドから多数のタミール人をスリランカに送り込んだため、丘陵地にいたシンハラ系農民は土地を追われることになりました。なお、この時期に英語がスリランカの公用語となり、その後、今日に至るまで、英語はスリランカ全土で広く使われています。
 20世紀に入ると民族運動が高まり、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけてスリランカ独立に向けた政治的な圧力がかかりました。1931年には、一定の範囲で島民に自治を認める新憲法が公布され、普通選挙にもとづく国家評議会も設置されました。
 その後、イギリスのインド撤退政策の一環として、1948年にイギリス連邦内で英国王を元首に頂く英連邦王国(コモンウェルス)としてスリランカの独立が実現しました。この時の国名は「セイロン」でした。
 1972年の共和制移行とともに国名を「スリランカ共和国」へ改称し、さらに、1978年の大統領制移行とともに現国名である「スリランカ民主社会主義共和国」に名称が改められました。
 スリランカでは、1983年以降25年以上にわたり、スリランカ北・東部を中心に居住する少数派タミル人の反政府武装勢力である「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」が、北・東部の分離独立を目指して活動し、政府側との間で内戦状態となっていました。
 2002年2月にノルウェー政府の仲介により停戦合意が成立し、6回の和平交渉が行われましたが、2006年7月に双方の武力衝突が再燃し、その後、停戦が崩壊しました。政府軍はLTTEを徐々に追いつめ、2009年5月、LTTE指導者ら主要幹部を殺害し、LTTEが壊滅しました。2009年5月19日、ラージャパクサ大統領が議会で戦闘終結を宣言し、内戦が終結しました。なお、この内戦で7万人以上が犠牲になったといわれています。
 内戦終結後、ラージャパクサ大統領は、約29万人ともいわれた国内避難民の再定住を進めました。同大統領は任期を2年残し、大統領選挙の繰り上げ実施を決定、2010年1月に大統領選挙が実施され、同大統領が再選されました。
 その後、2010年4月に総選挙が実施され、同大統領率いるスリランカ自由党(SLFP)を中核とする与党統一人民自由連合(UPFA)が過半数を大きく上回る144議席を獲得して、引き続き政権運営にあたることになりました。最大野党の統一国民党(UNP)が43議席、北・東部のタミル人を中心に支持を集めたタミル国民連合(TNA)も14議席、シンハラ民族主義政党である人民解放戦線(JVP)が7議席となっています。2010年11月ラージャパクサ大統領は2期目の任期を開始した。



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